引き算の美学とその余剰——佐貫絢郁・個展「ここ5年」に寄せて
山本浩貴(文化研究者、金沢美術工芸大学・講師)
本稿は、2021年の11月から12月にかけて東京・恵比寿のPeopleで開催された、アーティスト・佐貫絢郁の個展「ここ5年」に寄せて執筆された展評である。本展は、新型コロナウイルスの影響がいまだに残る状況下で感染症対策を講じながらスタートした。そのため、この展評では、展覧会そのものやそこに出展された佐貫の作品に対する論評だけではなく、「ウィズ・コロナ」の世界において彼女の芸術が照らしだすものについても考察を広げてみたい。そうすることで、本稿は、コロナ危機のなかでのアーティストの活動と、その可能性の一端を示す記録としても読むことができるようになるだろう。
1993年生まれの佐貫は、京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)大学院で日本画を修め、現在は関西を拠点として制作活動を継続している。彼女は、絵画やドローイングといった平面作品を中心としながら、ときに立体作品も制作し(「ここ5年」展にも、粘土で作られたオブジェが出品された)、さらに、平面作品の見せ方では、木製のイーゼルを用意してそこに作品を配置する——そのため、鑑賞者は作品の裏側を見ることができる——など、頻繁に立体的な要素をはらむ工夫が凝らされる。また、独特な雰囲気をまとう佐貫のアートワークは、数々の書籍やフライヤーの装画として用いられてきた。
そのため、佐貫のアートワークは、「イラストレーション」として理解され、議論されることが多い。言うまでもなく、「絵画」「ドローイング」「イラストレーション」は重なり合うし、筆者は、各領域のあいだに価値づけを行うつもりもない(し、できるとも思わない)。とはいえ、本稿では、デザイン的な観点から論じられる傾向のある佐貫の作品を、アートの文脈に引き寄せて分析する。当然ながら、「デザイン」と「アート」の境目もまた、流動的で不明瞭である。だが、ここではあえて、筆者が専門とする近現代「美術」史において評価の定まった作品との比較を通して、その独自性や意義を抽出してみたい。
@Yohey Goto
佐貫が長く続けている平面作品の取り組みとして、太い描線と特色とする絵画のシリーズがある。大小様々なサイズを有する、このシリーズでは、その特徴的な黒い太線は、墨と岩絵の具によって作り出されている。こうした画材の選択には、伝統的な日本画を専攻した佐貫の経歴が反映されているようにも思われる。また、墨による線から構成されるこれらの作品に、ビジュアル面において、同じく伝統的な日本美術とされる書との類似を指摘する人もいるだろう。こうした視覚的特性から、これらの作品と対照しうる美術史上の作品として、フランツ・クラインの絵画を想起することはさほど難しくない。
アメリカ生まれの画家クラインは、絵画の多彩な様式や主題に挑戦する試行錯誤を経て、1950年代に白と黒の線からなる独自の画風を確立した。こうした彼の作品群に、日本の書からの影響を看取する論者は多い。事実、クラインは当初、書からインスピレーションを得たと公言していた。その後、彼もその一角を担うとされる「抽象表現主義」——1940年代後半から50年代全般にかけてニューヨークを中心とする美術界を席巻した芸術様式——の擁護者である美術批評家クレメント・グリーンバーグとの交わりのなかで、クラインは自身の絵画と書の関係について口を慎むようになるが、彼が書から強い影響を受けて絵画を制作したことは、ほとんど疑いがない。
そのような意味で、佐貫の白と黒の絵画をクラインの抽象画と比較することは、まったく不適切ではなく、むしろ標準的な読みと言える。しかし、クラインがその制作プロセスとして、まっさらなキャンバスのうえに白と黒のミニマルな線を段階的に配していくのに対して、佐貫の制作プロセスは、まったく逆方向のベクトルを有している。すなわち、彼女は特定の風景や肖像から固有の要素を大胆に「間引く」ことによって、上述したモノクロームの絵画を作り上げる。ここには、その芸術実践に特有の「引き算の美学」とでも呼びうる方法論がくっきりと垣間見える。
「引き算の美学」というと、芸術のミニマリズムを彷彿とさせる。抽象表現主義の勃興ののちにアメリカで台頭した「ミニマル・アート」の作家たち——ドナルド・ジャッドやソル・ルウィットら——は、あたかも抽象表現主義に見られる主観性を否定するかのように、極限まで装飾を排除した平面・立体作品を制作した。とはいえ、佐貫のモノクローム絵画の美学は、この芸術潮流とも明確に異なる。先述の通り、彼女の作品には最初にはっきりとした過剰なまでの具体的モチーフが存在するからだ。そのような意味では、佐貫の「引き算の美学」を、抽象表現主義の横溢とミニマル・アートの縮減のあいだに位置づけることができるかもしれない。
@Yohey Goto
コロナ禍では不要不急のものが「引き算」され、私たちの日常は「ムダ」(とされるもの)による彩りを失った。芸術・文化は、その最たるものかもしれない。しかし、佐貫の「引き算の美学」では、むしろそうしたささやかな日常にこそスポットライトが照らされているように感じた。たとえば、粘土の小片にアクリル絵の具を用いて描いたカラー作品のシリーズには、テイクアウト営業だけになったレストランの看板が、ミニマルな形態によって表現されている。長細く伸ばした石鹸でできた小さなオブジェ、そしてそれらの集合から成立する立体インスタレーションもまた、作家自身を取り囲む、きわめて個人的な日常から構想されたものだ。
@Yohey Goto
それゆえ、佐貫絢郁の作品群に特徴的な「引き算の美学」が前景化するものは、コロナ禍の社会のなかでしばしば「引き算」されてしまうものだ。佐貫の「引き算の美学」において残されたもの——その余剰——を、鑑賞者は目にすることになる。それはきっと、私たちが歴史的なパンデミックの只中で見落としがちな何かだ。佐貫は、昨年度にポーラ美術振興財団在外研修生に選出され、今後はタイのバンコクで研修に従事する予定であるという。また異なる日常にさらされて、彼女がいかなる予測不可能な変化を遂げて帰国するのか、いまから楽しみで仕方がない。
水に溶ける骨——佐貫絢郁《Soap and Placebo》について
藤本流位(現代美術論、立命館大学大学院先端総合学術研究科・院生)
極太の描線によって構成されるドローイングのシリーズは、佐貫がこれまでの活動のなかで継続的に取り組んできた作品であり、彼女の作家活動にとってもその中心に位置づけられるものである。実際に、これまで行なわれてきたいくつかの展示においても、会場内ではドローイングが中心となっており、手捻りでかたちづくられた粘土の立体作品などは、その周辺に配置され、ドローイングを補完するもののように考えられるかもしれない。
しかし、ここで注目したいのは、佐貫の活動におけるこれらの立体作品への指向性である。例えば、京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)在学中には、校舎の壁をブチ抜いて、それを版画作品のための巨大な板材として使用し、出力物とともに並べるとった作品を制作している。このようなオブジェクトそのものを見せる行為は、ドローイングやペインティングといった枠組みだけで捉えられるべきものではない。そこには、ある種の粗暴さを伴ったオブジェクトの輪郭線が提示されている。ここから、佐貫の立体作品はドローイングの延長線上にあると言えるが、その試みは「描く」という行為そのものからは距離を取っている。それゆえに、そのような立体作品をドローイングに対する周辺としてだけで語ることはできない。やはりそこには、立体作品であるということが示す要素を細かく見ていく必要があるだろう。
ULTRA GLOBAL AWARD 2017
それらの立体作品のなかでも、本稿では2020年より制作される《Soap and Placebo》というシリーズを取り上げていく。これは、タイトルにもあるように、粉石鹸を固めてつくられたオブジェクトと偽薬——摂取すること自体を目的とする有効成分の含まれていない錠剤——によって組み立てられた作品である。それぞれのパーツは、互いに固定されることなく、展覧会場ごとに一から組み直すものとして設計され、会場には複数のオブジェクトが設置される。そうして出来上がった作品は、両手に収まる程度のサイズで、石鹸によって形成される細長いラインは、絡まった配線やブチブチと千切れた筋肉繊維を想起させる。
筆者は、2022年1月に京都にて開催された藤田紗衣との二人展「藤田紗衣と佐貫絢郁の移動式菜園ハウス」にて、この《Soap and Placebo》の一部に触れる機会を賜った。石鹸のオブジェクトは、わたしたちが普段使っている手洗い石鹸よりも硬質な肌触りをしていて、動物か何かの骨を触っているようだった。この骨というイメージから、佐貫との会話のなかで、彼女がしばしば自身の作品の着想元として挙げる静岡県志太郡出身の小説家・藤枝静男との関連が思い起こされる。
私小説や随筆のスタイルで書かれたもののなかでも、藤枝はいくつかの作品において妻の入院生活、そして彼女との死別について語っている。藤枝の妻は「自分が死ねばどうせ水になって消えるのだから」と、自分の遺骨は生前に好きだった大原美術館の庭の隅に埋めておいてくれ、お墓もつくってくれなくていいと藤枝に言っていたという。『妻の遺骨』という随筆では、遺骨をポケットに入れ、実際に美術館の庭に埋めに行ったことが書かれているが、遺骨はその日のうちに美術館の館長によって「こういうことをされては困る」と突き返されてしまった。
大原美術館
その後に執筆された『悲しいだけ』という短編のなかでも、妻の死について語られている。藤枝は、入院する妻を看病し、病の苦痛に対して理性的に振る舞おうと務めたが、それも彼女の死によって解体してしまう。当然のことかもしれないが、妻の死は、妻と身体的に接触する機会が消滅するということでもある。そして、そのポッカリ空いた穴からどうしようもなく沸き起こってくるのが「悲しい」という感覚なのだ。藤枝はこのように言っている。「「妻の死が悲しいだけ」という感覚が塊となって、物質のように実際に存在している。これまでの私の理性的または感覚的の創造とか、死一般についての考えとかが変わったわけではない。理屈が変わったわけではない。こんなものはただの現象に過ぎないという。それはそれで確信としてある。ただ、今はひとつの埒もない感覚が、消えるべき苦痛として心中にあるのである。」妻の遺骨は藤枝とともに暮らした自宅の庭に埋められた。
ここで《Soap and Placebo》に話を戻そう。この作品が粘土のような素材ではなく、石鹸や偽薬という水に溶ける素材でつくられているということに注目したい。わたしには、それらの素材からなる《Soap and Placebo》が、「悲しい」という感覚が物質となって、消えるべきものとして心中にあるという藤枝の言葉に重なり合っているように思える。つまり、「自分が死ねばどうせ水になって消えるのだから」という藤枝の妻による言葉は、レトリックとして、藤枝のなかに沸き起こる「悲しい」という感覚を物質的なものとして強調する。それと同様に、水に溶けることでわたしたちの身体に働きかける石鹸や偽薬は、《Soap and Placebo》というかたちが与えられたことによって、より物質的なものとなって、皮膚に浮かぶ脂を洗い流す、身体の周期を整えるために摂取するといった素材の性質を強調するのである。
さらに《Soap and Placebo》を構成するこれらの素材の性質は、パンデミックを生き延びる現在のわたしたちにとって必然的に、より強い意味を持つものとして受け止められる。何よりも清浄であることが求められる最中で、わたしたちは他者と触れ合いながらも、それを洗い落とすことで自らを健全に維持するよう務めなければならない。「健全」であるためには、自らのなかから他者を洗い落としていかねばならないのだ。わたしには、藤枝静男の言葉に共鳴するようにして、それがすこしだけ悲しいことのように感じられる。
最後に改めて《Soap and Placebo》に目を向けてみよう。それらは骨壷に納められた骨のようにも見えるかもしれない。それを一つずつゆっくりと吟味していってほしい。いまのわたしのなかにある「悲しい」という感覚に最も近いかたちをしているのはどれだろうか。